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  • 北宋哲宗朝の政治文化と人脈 : 「編類章疏」と「看詳訴理」を事例として

    横山, 博俊 人文研究 66 49-66, 2015-03

    ...両政策で争点となったのは、先代皇帝である神宗批判者の処分であった。その背景には、政治の象徴として従来の「祖宗之法」ではなく神宗を重視した当時の風潮があり、さらに神宗を信奉する哲宗の意向も関わっていた。当時の新法党政権内部では、新法の実施・対西夏戦争・旧法党官僚への処遇をめぐって章惇・蔡卞・曾布の三者が対立していた。...

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  • 熙豊年間の対西夏政策 : 北栄・西夏の横山領有を廻って

    與座, 良一 歴史学部論集 1 39-53, 2011-03-01

    ...本論では、北宋による熙豊年間の対西夏政策を、北宋と西夏の境界である横山を廻って起こった戦役や堡寨の建設、禁軍の再編などとの関連から再考する。そこでまず、宋の熙寧五年までの対西夏政策を確認し、神宗政府の政策が原路から麟府路に至る横山に沿って城寨を築くこと、特に鹿延路と麟府路の連絡を通じることに傾注したことを指摘する。...

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  • <論説>崇寧五年正月の政変 : 対遼交渉をめぐる徽宗と蔡京の対立

    藤本 猛 史林 92 (6), 985-1016, 2009-11-30

    ...これが蔡京の第一次当国だが、対西夏戦略に介入してきた遼への対応をめぐって両者の意見が分かれた。土地返還を飲んで無難な宥和策をとるよう指示した徽宗に反し、蔡京は故意に遼との交渉を決裂させようとした。こうして宋遼関係が緊張する中発生したのが崇寧五年正月の政変で、蔡京は罷免された。次いで宰相とされた趙挺之は徽宗の宥和策を堅持し、遼との交渉は無事妥結する。...

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