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検索結果 77 件

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  • 装束からみた豊臣政権の支配秩序

    寺嶋 一根 洛北史学 17 (0), 68-92, 2015-06-06

    ...こうして、豊臣政権の支配秩序に応じた服装区分は完成したが、装束から見た場合、豊臣家は摂関家の一つでしかないという問題点が残った。そこで、文禄四年にいたって、秀吉は天皇装束である「引直衣」に「唐冠」という全く新しい組み合わせで参内を行い、慶長二年には秀頼とともに惣礼の場でもこれを着用することで、豊臣家の絶対性を示すにいたったのである。...

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  • 豊臣政権の関東・奥羽仕置 : 続論

    中野 等 九州文化史研究所紀要 58 131-162, 2015-03-31

    はじめに 一、家康の「関東惣無事」関与 二、九州平定後の関東・奥羽政策 三、北条氏の恭順と奥羽の静謐 四、伊達政宗の会津侵攻 むすびにかえて

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  • <論説>豊臣政権の訴訟対応 : 畿内・近国の村落出訴を中心に

    谷 徹也 史林 98 (2), 320-353, 2015-03-30

    ...本稿では、豊臣政権の訴訟処理体制について考察した。その意図は、訴訟対応の様相の解明が、研究史上で等閑視されてきた政権の内部構造に迫ることを可能にし、この時期の「公儀」の正当性を支えた基盤を提示することにつながるところにある。当時、政権の直接支配下にあった畿内・近国社会では、給人や代官の百姓に対する非分や、村落間の用益相論が権力の相対すべき主要な課題であった。...

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  • 豊臣時代の伏見城下町と大坂城下町

    松尾 信裕 大阪歴史博物館研究紀要 13 (0), 35-45, 2015

    ...さらに、秀次事件ののち、京都に代わる豊臣政権の公儀の城下町となっていったが、秀吉の死亡により、豊臣家と徳川家の確執の場となり、都市として繁栄していくことはなかった。...

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  • 豊臣政権の算用体制

    谷 徹也 史学雑誌 123 (12), 2125-2148, 2014

    The large body of research literature that has accumulated to date on the direct landholdings (kurairi-chi 蔵入地) of the Toyotomi Hideyoshi regime, which formed its power base, has run the gamut from …

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  • 豊臣政権下の鷹図

    Shinomiya, Mihoko, 四宮, 美帆子 早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊, 日本語日本文学 演劇映像学 美術史学 表象・メディア論 現代文芸 58 一七七-一九三, 2013-02-26

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  • 土佐国黒岩の戦国期城下町の構造

    片岡 健 季刊地理学 65 (1), 1-16, 2013

    ...この要因は,豊臣政権に臣従して以降,分国規模での検地および城割りの実施にみられるように長宗我部氏の大名権力が向上し,これに伴い国人領主片岡氏が国人領内で権力を上昇させたためとも考えられる。黒岩城下町の給人の名請地構造は,名請地が小村黒岩を中心に展開しており,生産物の輸送負担および耕作の移動負担が効率化されていた。...

    DOI DOI Web Site ほか2件 被引用文献1件 参考文献45件

  • 豊臣政権期の京都の町家

    丸山 俊明 日本建築学会計画系論文集 75 (651), 1225-1230, 2010

    The first Juraku-tyo was the first castle town where was built along with Jurakudai in Tensyo 14-18 (1586-90).<br>Toyotomi government assembled the wealthy commonalty and ordered to inhabit in …

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  • 川嶋氏所蔵文書中の九戸一揆関係文書について

    菅野 文夫 岩手大学文化論叢 7-8 39-55, 2009-03-31

    ...九戸政実ら陸奥国糠部郡の領主たちによっておこされたこの一揆は,「郡中諸侍其外下々迄,京儀をきらい申内存候間」の文言によく表れているように,前年の奥羽仕置に対する百姓を含む広範な階層を巻きこんだ抵抗であり,葛西大崎一揆などと一連の,豊臣政権の全国統一に対する最後の抵抗であった。...

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  • 朝鮮との関わりから見た神国思想の特質と展開

    庄 佩珍 洛北史学 9 (0), 1-23, 2007-06-02

    ...本論は、豊臣期までの朝鮮問題と関わる「神国」の内実−−特に神功皇后三韓征伐伝説に見られる「神国」の内実を検討することにより、豊臣政権期までの朝鮮問題に関係する「神国」思想の展開のみならず、神国思想全体の展開やその特質についても究明するものである。 その結果、①朝鮮問題に関係する「神国」思想の展開は、基本的に神国思想全体の変化・展開と軌を一にするものである。...

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  • 幕府撰日本図に見る近世越中の地域像

    深井 甚三 富山大学人間発達科学部紀要 1 (1), 221-233, 2006-12

    ...豊臣政権の後を引き継いだ徳川政権は,全国土を掌握した政権としての正当性を示すためにも,全国60余州の国絵図を大名らに作成,提出させ,これを基に日本図を作成した。慶長,寛永,正保,元禄,そして天保と各時期に国絵図が作成されたが,これらの国絵図から寛永,正保,元禄,享保の各日本図が作成されたことが判明しており,その図や写が現存する。...

    DOI 機関リポジトリ HANDLE ほか1件

  • 九戸一揆の一断面

    菅野 文夫 岩手大学文化論叢 5 139-149, 2002-03-31

    ...ただし紙幅の都合と筆者の力量不足により,一揆のはじまりと想定される天正18(1590) 年冬から,豊臣政権による軍事行動が本格化する直前の翌年6月までをとりあげることとしたい。...

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  • 乱にいて治を忘れず:戦国時代の名経営者:蒲生氏郷 豊臣政権・出世頭・の手腕

    小和田 哲男 日経ベンチャー (180) 84-87, 1999-09

    蒲生氏は、近江国蒲生郡(現在、滋賀県蒲生郡)の郡名を苗字とする古代以来の近江の名族である。しかし、いつの時代からか、俵藤太秀郷たわらとうたひでさとの後裔といわれるようになり、藤原姓を称している。 のち、室町・戦国時代には、この地の守護大名から戦国大名になった六角氏の重臣に位置づけられ、氏郷の父賢秀かたひでのとき、織田信長に仕えている。

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  • 織豊系城郭以前

    多田 暢久 奈良史学 (13) 93-104, 1995-12

    ...近世社会の幕開けをどの時期に設定するかは、織田・豊臣政権に対する評価と関わる重要問題である。織田政権の性格については、まだ結論が出ているとはいえない。ただ、城郭研究において、信長の安土城を近世城郭への画期とすることは、大筋で認められるであろう。石垣・瓦・礎石建物の使用が、その指標として挙げられている。しかし、安土城以後も、城郭が一斉に近世化したわけではない。...

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  • 京都改造: ひとつの豊臣政権

    鎌田 道隆 奈良史学 (11) 21-49, 1993-12

    ...中世から近世への政治的展開は、織田政権と豊臣政権の間や豊臣政権と徳川政権との間にあるのではなく、じつは豊臣政権のなかにその転回があるのではないかと考えられる。...

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  • 徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制

    笠谷 和比古 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 7 89-104, 1992-03-30

    ...すなわち家康の軍事的勝利は、専ら豊臣系諸大名の多大の貢献によってもたらされていたのであり、それ故に関ヶ原戦後の政治体制においては、豊臣系諸大名の勢力は強大なものとなっており、また大坂城の豊臣秀頼を頂点とする豊臣政権も解体されたのではなくて、潜在的な政治能力を充分に保っていた。  ...

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  • <論説>近世武家官位制の成立過程について

    李 啓煌 史林 74 (6), 816-846, 1991-11-01

    ...まず、豊臣政権期の官位叙任に対しては全国統一過程とその権力性格と関連させて分析・評価し、特に陪臣の官位叙任に注目した。次に、家康・秀忠の時期における武家官位叙任は将軍宣下・上洛と大きく関連していたことを明らかにした。寛永年間には定例的叙任が定着し朝廷から独立した武家官位制が展開し始めるが、二条城行幸の際の位階が近世武家官位制の基本的枠組となったことに注目した。...

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  • 柳川藩初期の石高と年貢

    松下 志朗 經濟學研究 49 (4/6), 213-229, 1984-07-10

    ...はじめに / 一 豊臣政権期の検地と石高 / 二 立花氏の柳川再入封と石高 / 三 近世初期の藩財政と年貢 / むすび...

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  • 豊臣政権期島津氏の蔵入地と軍役体制

    山本 博文 史学雑誌 92 (6), 955-1001,1106-, 1983

    <p>It is well known that, in the process of Toyotomi Hideyoshi's (秀吉) invasion of Korea, various feudal lords (daimyo 大名) were subjected to a consolidated military service levy based on the annual …

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  • <論説>織田政権の蔵入領

    奥野 高廣 史林 62 (4), 520-558, 1979-07-01

    ...そして豊臣政権をへて、最後の封建政権・幕藩体制では、この土地と貨幣の両頭政策が命運を決定する。織田政権は、散在性をもつ土地を蔵入領の主体とするが、荘園制を克服し、朱印制採用の方向を打出し、近世に近づいた。...

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  • 中世末城下町論

    松本 豊寿 地理学評論 38 (8), 485-500, 1965

    By the castle-town in the late middle age (or the early castle-town), the author means one during the age from 15th to the beginning of 17th century. It consisted of retainers' dwelling places and …

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