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検索結果 37 件

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  • 生活用水からみた仙台城下の地形と地盤

    柴田 尚, 太田 久昭 土木学会論文集G(環境) 76 (3), 36-46, 2020

    ...<p> 仙台藩祖伊達政宗は1600年(慶長5)暮れに居城を岩出山(現 宮城県大崎市)から仙台の青葉山に移した.関ヶ原の戦いが終わったとはいえ,上杉景勝に対する臨戦態勢を貫いて青葉山に仙台城を造ったといわれる.そして,未開の地である広瀬川対岸の河岸段丘地に城下町を開いた.家臣はじめ約5万人といわれる人々の生活用水及び消防用水の確保を保証することができると判断したのである.しかしながら今日までこの水不便...

    DOI Web Site 参考文献5件

  • 米沢藩の財政改革と上杉鷹山

    大矢野, 栄次 経済社会研究 58 (1-2), 21-49, 2018-06-25

    ...上杉景勝の代に関ヶ原の戦いにおいて西軍について敗れ120万石から30万石に減封された。更に、第3代綱勝が後継ぎがないまま亡くなったために吉良義央と綱勝の妹富子の子を第4代上杉綱憲としたが、上杉家の禄高は会津時代の120万石の8分の1の15万石にまで減らされた。米沢藩は藩士を解雇せずに移封されたために常に財政難となり倹約が必要な藩となった。...

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  • 関ヶ原IFシミュレータ

    柴田, 武, 中屋敷, かほる, 坂東, 忠秋 第78回全国大会講演論文集 2016 (1), 169-170, 2016-03-10

    ...関ヶ原の戦いは兵数、陣形からみて西軍有利と言われていたが半日で東軍が勝利した。この戦いには裏切りなど各種の要因が多く存在していた。もし小早川秀秋が裏切らなかったら、毛利が参戦していたら、秀頼が出陣していたら、全く異なる結果になっていたと思われる。本シミュレータはこのようなIFをシミュレーションするものである本シミュレータはJAVAで作成し、部隊はオブジェクトで構成した。...

    情報処理学会

  • 三年一昔

    伊勢 雄也 ファルマシア 52 (9), 900_1-900_1, 2016

    ...特に戦国時代の歴史が大好きで桶狭間の戦いや長篠の戦い、関ヶ原の戦いなど、戦いに明け暮れていた日本史に男の生き方の潔さやロマンを感じたのかもしれない。...

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  • 明和6(1769)年における米沢城下のGIS分析

    渡辺 理絵, 角屋 由美子, 小野寺 淳, 小橋 雄毅 日本地理学会発表要旨集 2016a (0), 100101-, 2016

    ...江戸時代2度にわたり,米沢の城下町は大幅な拡張をみせた.一度目は,関ヶ原の戦いの後,敗者となった上杉景勝が,米沢30万石に減封に処せられたことによる.この時,景勝は120万石時代の家臣の多くを召し放すことなく米沢に移動させた.その数は5000~6000人とも伝えられる.米沢は,すでに伊達氏や蒲生氏によって米沢城とその城下町の素地が築かれていたが,景勝はそれを大幅に拡張し,家臣の収容に徹した.しかし三...

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  • <b>上杉鷹山とリスク管理 </b>

    角屋 由美子 安全工学 51 (4), 206-214, 2012

    ...<p>米沢藩は,上杉謙信を家祖とする名門上杉氏を領主としていたが,米沢藩初代藩主となった上杉景勝は,関ヶ原の戦いで敗者となり,会津120 万石の大大名から米沢30 万石に減封となった.さらに三代藩主上杉綱勝の急死に伴う養子手続きの不手際により,鷹山が上杉家の養子となり家督を相続した時は,領知は15 万石まで激減していた.鷹山は,財政難に苦しむ米沢藩の藩政改革に生涯をかけて取り組み,成功に導いた藩主であった...

    DOI Web Site 参考文献9件

  • 石田三成佐和山入城の時期について

    伊藤 真昭 洛北史学 4 (0), 67-89, 2002-06-29

    ...石田三成は関ヶ原の戦いで敗れたために、その関係史料の残存状況はあまりよくない。そのため軍記物などの編纂物によって語られているのが現状である。しかしこのような方法では真の三成像を描くことは出来ない。そのためまず大事なことは一次史料を博捜することである。本稿では『新修彦根市史』によって近江関係の石田三成関係史料が博捜されたことを受けて石田三成がいつ佐和山に入城したかを考察した。...

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