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検索結果 65 件

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  • 触れることと触れないこと

    大村 哲夫 宗教研究 96 (2), 55-78, 2022-09-30

    <p>身体と心をつなぎ癒し効果も期待できる「接触」は、宗教やスピリチュアルケアにおいて重要な役割を担ってきた。しかし日本においてスピリチュアルケアを担う臨床宗教師とスピリチュアルケア師では、医療的・心理的・倫理的リスクから接触を制限している。それは信仰を前提とした与えられる宗教的ケアから、ラポールを重視しケア対象者を支えるケアへと質的に変化をもたらした。またスピリチュアルケアは、標準的な技法を持…

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  • 動物によるヒトの破砕的デコーディング

    廣田 龍平 日本文化人類学会研究大会発表要旨集 2020 (0), A04-, 2020

    日本の民俗社会において、キツネなどの野獣がヒトに対して怪異をなすという話は広範に伝わっている。本発表では、野獣に「化かされた」事例がアニミズム理論との関係でどのように定位できるのかを論じる。「化かす」は野獣がヒトの観点を変化させることだが、もっぱら身体性の変化に着眼するアニミズム理論では、この事態を十分に捉えられない。霊魂の変化という可能性も視野に入れ、身体と霊魂の変容可能性について論じる。

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  • 常朝の生きる苦しみ

    上野 太祐 倫理学年報 69 (0), 249-262, 2020

    ...This demonstrated for Jōchō, his unity, body and soul, with his master. Jōchō realized that he had already become an authentic “Nabeshima retainer” by becoming an authentic retainer to his master....

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  • 制作者研究NEO <地域にこだわる> 【 第1回 】 吉崎 健(NHK)後編

    七沢 潔 放送研究と調査 69 (8), 76-99, 2019

    前編では赴任地の熊本で初めて“水俣”に出会った吉崎健ディレクターが、心身傷だらけになりながら胎児性水俣病患者たちの番組を作り、その後転勤した東京では制作環境に戸惑い、思うように番組を作れないうちに長崎に異動を命じられたことまで伝えた。後編はその後吉崎が長崎からの転勤先に福岡を選び、<地域にこだわる>決意を固め、再び“水俣”に取り組んでいく姿を追う。吉崎は2009年の水俣病特別措置法により「最終決…

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  • 「心身一如」の由来を道元・栄西それぞれの出典と原典から探る

    仲 紘嗣 心身医学 51 (8), 737-747, 2011

    「心身(シンシン)一如」は心身医学で重要な概念であるが,この言葉の由来は従来から「道元の言葉"身心(シンジン)一如"とされ,」とあいまいである.近年は栄西の言葉「心身(シンジン)一如」とする説もある.栄西(1141〜1215年)は1198年に『興禅護国論』を執筆しているが,その原本は紛失して現存していない.現在,われわれが一般に読むことができるのは1778年以降の校訂本である.その校訂本では,「…

    DOI Web Site 参考文献26件

  • 人工呼吸器離脱過程における心不全患者の取り組みの構造化

    関根 由紀, 小松 浩子 Journal of Japan Academy of Critical Care Nursing 6 (1), 16-25, 2010

    本研究の目的は,心不全患者の人工呼吸器離脱過程におけるさまざまな状況に対し行われた取り組みについて,患者の語りに基づき共通性のある概念を抽出し,構造化することである.CCUおよびICUで24時間以上人工呼吸管理を受けた心不全患者を対象に半構成的面接を行い,グラウンデッドセオリーの分析方法に基づき質的因子探索型研究を行った.<br>その結果,中核カテゴリーとして【命を脅かす痰に対し全身全霊を尽くし…

    DOI 医中誌 被引用文献2件 参考文献9件

  • <i>Pneuma</i>between body and soul

    Geoffrey Lloyd Journal of the Royal Anthropological Institute 13 (s1), S135-, 2007-04

    <jats:p>This paper explores the divergent ideas that different ancient Greek thinkers entertained on the nature of wind and air outside the body, on the role of breath and air within it (e.g. in …

    DOI Web Site Web Site 被引用文献1件

  • 「佐々木賢太郎」 研究の検討

    釜崎 太 スポーツ教育学研究 27 (1), 1-19, 2007

    ...For example, “physical education protecting our lives”, “Conquest of performance principle”, “Engineer of body and soul”, “Class to face the body crisis”, “physical education emphasizing the recognition...

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  • 看護学生の死生観の学年間比較

    田代, 隆良, 永田, 奏, 出田, 順子, 安藤, 悦子 保健学研究 19 (1), 43-48, 2006

    長崎大学医学部保健学科の看護学生270人(1年生68人,2年生68人,3年生68人,4年生66人)を対象に死生観に関する自記式アンケート調査を行った.学生は,死を「永遠の眠り」「肉体と精神の眠り」「神秘・不可解なもの」と捉え,学年間に違いは認められなかった.自分の死に関してもっとも嫌なこととして,「物事を体験できなくなる」「予定していた計画や仕事ができなくなる」は1年生に,「痛み・苦しみ」は4年…

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  • いま、身体をどう理解したらいいか : 日本人にとっての認識の諸問題

    楠原 偕子 日本橋学館大学紀要 1 (0), 17-31, 2002

    スポーツマンや俳優、舞踊家、ミュージッシャンなどは、からだをメディアとして使用することを専門とする人びとである。彼らが、からだを鍛えるということは、個々の人間の持つ身体機能を専門に応じて十全に働くように調整し、それを巧みに操作できる力を涵養することが目的だ。そして、そのための鍛え方がある。ところで、一般にだれであれ人間という存在は、個々の持つ身体各部の機能が感情や知能とも解け合って、有機的に働い…

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  • Malthus, Jesus, and Darwin

    John M. Pullen Religious Studies 23 (2), 233-246, 1987-06

    ...The others are, at death, not condemned to eternal suffering, but are annihilated, body and soul.</jats:p>...

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  • 『行人』を読む

    米田 利昭 日本文学 36 (9), 44-57, 1987

    心と身体がばらばらの<腑抜け>になりながら家と夫の支配に屈伏しない反制度的な女お直を中心に、知的優越者一郎、主人公になりそこねた二郎を配し、家庭崩壊の<不安>という、行動にならない人間の心理を描いたドラマとして『行人』を読みたい。

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  • イエイツの動揺

    園井 英秀 言語科学 13 41-47, 1977-03

    ...The poet's preoccupation is the image of 'Perfection,'hence the inevitable conflict between the irreconcilable claims of body and soul....

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  • ルーミーの宗教思想

    小田 淑子 オリエント 18 (1), 27-41,159, 1975

    ...God gives man both body and soul (<i>ruh</i>, <i>jan</i>), the latter of which is one with God. Man is the only creature that is created to know God....

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  • 明治前期(1872~1903年)における歴史教育方法の研究

    吉田, 太郎 横浜国立大学教育紀要 8 123-139, 1968-12-20

    明治初年から10年代までの歴史教育の方法は,根本は儒者の教授法式の域を超えたものではないが,上述のごとく幼童に学習の苦痛の軽減を図る改善の跡は十分見うけられる。長年の陋習とも云うべき素読は,入門時に幼童が通らなければならぬ苦難の関門であった。このことはつぎの回想記で明らかである。「総て今までの教へ法は,・・・七・八歳の童子を教ふるに,四書五経などの六づかしきものを読せ,厳しき規則を設け,順序もな…

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