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  • 「教会音楽」と「宗教音楽」 ――アルベルト・ゲレオン・シュタインの教会音楽論――

    清水 康宏 音楽学 64 (2), 113-126, 2018

      本稿は、教会音楽家であり司祭でもあったアルベルト・ゲレオン・シュタインの1864年の教会音楽論を取り上げ、彼が同時代の批評家たちと当時の教会音楽についてどのような理解を共有していたのか、そして教会音楽と礼拝との関係をどのように考えていたのかを考察するものである。<br>   彼は、オペラや器楽など世俗的なものを教会に必要以上に持ち込むことに対して異議を唱えており、ウィーン古典派の三巨匠のミサ…

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  • 書物(テキスト)のリテラシー

    髙木 元 日本文学 62 (4), 10-22, 2013

    <p>近年、中野三敏氏が〈和本リテラシー〉の復権を提唱されている。その驥尾に付し、きわめて即物的に〈書物というモノ〉それ自体をテキストと位置付け、書物《テキスト》を扱う(読む)ために必要な知識と技術とについて考えてみたい。</p><p>日本の物語や小説の顕著な特質は〈絵入本〉として享受されてきたことである。写本から整版、そして活版へというメディアの変遷に際して、絵図の扱いは技術的に大きな問題であ…

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  • 近世後期日本における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容

    大島, 明秀 洋学 14 1-32, 2006-03

    近世を「鎖国」ではなく、「海禁」政策と東アジアの華夷秩序から捉え直さなければならないとする近年の「鎖国」研究の成果を踏まえ、本稿は「鎖国」を言説として捉え、どのように日本で「鎖国」言説が形成されたのかを追究した試みを行った。資料として用いたのは、日本において「鎖国」という言葉の誕生の契機となったケンペル原著、志筑忠雄訳『鎖国論』写本(一八〇一年)であり、その受容を見ていった。 …

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  • 熱田の楊貴妃伝説 : 曽我物語巻二「玄宗皇帝の事」を端緒として

    渡瀬 淳子 日本文学 54 (12), 21-29, 2005

    中・近世を通して流行した、熱田明神が楊貴妃となったという伝説について、中世の諸文化との関連から多角的に論じた。『曽我物語』巻二「玄宗皇帝の事」という章段の簡単な記述を出発点とし、この伝説がどのように生成・発展し、広がっていったかを追った。その中で、時代が下るにつれて物語が具体的に変化していく様子や、謡曲や『長恨歌』注釈への影響、日本の伝説の中国への輸入など、この伝説を取り巻く状況が明らかになった。

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  • 津八幡宮祭礼の史料と画像 : 幕末惣町祭礼の一事例

    福原 敏男 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 98 135-156, 2003-03-31

    近世の政治都市である城下町を始め、さまざまな都市における祭礼において、一つの町共同体の祭礼と、町共同体連合による城下惣鎮守の祭礼が重層的に存在している事例がある。本稿では右の惣町祭礼の視点より、三重県津市の津八幡宮の祭礼を対象とする。歴博所蔵の伊勢津八幡御祭礼図巻一巻、石水博物館所蔵の伊勢津八幡神社祭礼画巻一巻を検討し、三重県立図書館所蔵の『天保十三年(一八四二)寅年八月十五日 …

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  • 更埴条里遺跡・屋代遺跡群に見る災害と開発

    寺内 隆夫 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 96 23-51, 2002-03-29

    ...長野盆地南部では,千川によって形成された自然堤防と後背湿地を利用して,稲作を主体とする耕地開発が盛んに行われてきた。しかし,各時代に創出された耕地は,千川の氾濫による洪水,あるいは寡雨な気候や千川の河床低下による旱魃などの被害を受け続けてきた。...

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  • 古代における善光寺平の開発について : 旧長野市街地の条里遺構を中心に

    福島 正樹 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 96 69-86, 2002-03-29

    善光寺平(長野盆地)は,千曲川・犀川によって形成された最大幅10km,南北30km,面積300k㎡の長野県内で最も広い盆地のひとつである。この地域は,古代においては,更級・水内・高井・埴科の4郡があい接し,『和名抄』に記載された郷の数や式内社の数をみると,信濃国で最も分布の密度が高い地域で,早くから開発が進んでいたところである。本稿はこの地域の条里的遺構について,特に旧長野市街地に存在した条里的…

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  • 弥生・古墳時代における善光寺平の水田開発

    臼居 直之 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 96 7-22, 2002-03-29

    千曲川流域の沖積低地には,弥生時代から近世にわたる数多くの集落跡と水田跡が発見されている。洪水堆積層に覆われた遺跡からは,畦畔や溝で区切られた各時代の水田区画が検出され,多量の木製農耕具が出土している。これらの水田区画と農耕具には時代ごとに特長があり,いくつかの画期を見いだすことができる。またその変化の背景には自然条件を克服した技術や政治・社会的な要因が推察される。善光寺平の水田区画は,低地開発…

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  • 瀬戸内海における海岸景の変遷

    西田 正憲 ランドスケープ研究 64 (5), 479-484, 2001-03-30

    瀬戸内海において, 古代から現代にかけて日本人が海岸景をどのように捉えてきたか, 紀行文等の記述と定数名所・観光地等の選定から, その変遷を考察する。古代は, 海岸を身近な風景として多彩に捉え, 特に潟, 白砂・白浜, 松原の風景を賞賛していた。近世には, 海岸の松を微視的に捉え, 松原, 白砂、砂脂の風景を賞賛し.特に磯馴松と舞子の浜を特化させたが, 全体に海岸景を数多く名所化し, …

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  • 水考」

    中根 金作 造園雑誌 49 (4), 246-254, 1985

    ...Only an imaginaly picture was drawn in the middle ages or in the modern times about “RANTEI-KYOKUSUI-EN” that was a famous feast of “KYOKUSUI” in China....

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