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  • 江戸町会所における施策決定の技法―承認印としての「小印」―

    渡辺 浩一 国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇 = The Bulletin of The National Institure of Japanese Literature, Archival Studies 53 (18), 21-37, 2022-03-18

    ...江戸町会所は、勘定奉行(財政担当)と江戸町奉行(江戸市政担当)の両方を上司とするという点で幕府の諸組織のなかでは特異な性格を持つ。そのため、江戸町会所が救貧政策を行う場合には、両方の上司の承認を得る必要があった。双方の上司は別々の場所で執務をしていたため、上申書は3ないし4人の奉行の間で回覧された。徳川幕府においては、それ以前には上申書は付箋を付ける形で承認されていた。...

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  • 享保5年、上総国市原、武蔵国都筑、常陸国多珂各郡下の入会紛争

    後藤 正人 入会林野研究 39 (0), 53-59, 2019

    ...当時の評定所では勘定奉行・町奉行・寺社奉行各1名が実質的な審理を行い、その審議結果を3奉行10名全員で確認した上で裁許したものと思料される。従って評定所では「裁判官全員による合議制」が一応採用されていたことが確認される。...

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  • 近世・近代移行期の治水行政と土木官僚 : 静岡藩水利路程掛とその周辺

    樋口 雄彦 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 203 161-293, 2016-12-15

    ...江戸幕府において天領の治水行政を所轄したのは勘定奉行をトップとする勘定所であり、その配下として実地で防災・復興などの土木工事を担当したのが普請役という下級官吏であった。普請役には純粋に技術者だった者がいた半面、工事に従事する農民を管理・監督するだけの行政官だった者も混在していたと考えられる。...

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  • 出世双六にみる幕臣の出世

    髙久 智広 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 182 89-113, 2014-01-31

    ...特に「一生小普請」については、当該双六の作成時期として比定される享保期から天明期にかけての勘定奉行・勘定吟味役、大坂町奉行の動向を追い、「御役替双六」における「一生小普請」の設定が、一八世紀半ばにおける上記三職就任者の処分・粛正と小普請入りの実態を反映したものであることを指摘した。...

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  • <論説>近世上方支配の再編

    藤本 仁文 史林 94 (4), 541-576, 2011-07-31

    ...一七世紀末―一八世紀初頭にかけて、両者は最終的に分離し、譜代大名は外様大名と同様に将軍を頂点とする軍役体系のもとに編成されて全国各地で譜代藩として定着していき、また老中・寺社奉行・勘定奉行らが担当する全国支配のもとで、京都所司代・大坂城代を頂点とする幕府支配機構が一定程度の独自性を持ちながら上方支配を担当することとなった。...

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  • 安政2年における盛岡藩の蝦夷地持場の見分に関する予察

    村上 由佳, 中尾 千明 日本地理学会発表要旨集 2008f (0), 97-97, 2008

    ...『松前持場見分帳』は,安政2年4月25日に表目付(後に蝦夷地附御留主居)上山半右衛門と勘定奉行新渡戸十次郎が,「箱館并東蝦夷地御持場所為見分箱館江渡海被 仰付」と,箱館と東蝦夷地の「持場」を見分するために,箱館に渡海を命ぜられるところから書き始められている.そして箱館と東蝦夷地で「持場」の見分を行い,見分終了後,見分結果に基づいて箱館奉行所に伺書を提出している.伺書には,地形などを考慮し,元陣屋・出張陣屋...

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  • 大原幽学の基礎的考察 : 大原學全書・全集本の検討「奉行所本」を中心に(大原幽学と性学教団)

    鈴木 映里子 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 115 7-38, 2004-02-27

    ...関東取締出役の手先が、幽学の教導所である改心楼に押し入るという「牛渡村一件」が起こったのが嘉永五年四月、幽学と門人たちが銚子本城村で関東取締出役の吟味をうけた後、上部機関である勘定奉行所に差出になり、幽学が召喚されて出府したのが嘉永五年十月である。この召喚の際に証拠書類が提出された。判決が下った安政四年には返却され村に持ち帰られたと思われる。...

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  • 近世の国継浦触と海事

    水本 邦彦 洛北史学 4 (0), 1-20, 2002-06-29

    ...中心をなすのは、幕府勘定奉行所を始めとする幕府諸機関により発せられた公儀浦触で、内容は海辺に関わる様々な指示がテ—マとなっていた。幕府の「鎖国」政策にも幻惑されてか、近世史研究における海辺への関心は相対的に低い。しかし、舟運が物流の基幹手段であったこの時代、海事は国家・社会の中心課題であり、公儀浦触通達にも全国的なネットワ—クが形成されていた。...

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  • 定川掛制度に関する一考察

    篠田 哲昭, 中尾 務 土木史研究 21 333-338, 2001

    ...これは1734 (享保19) 年3月4日以来の定請負制度が廃止されたことになり、代わって町奉行所と勘定奉行所の両掛により御入用橋の新規及び修復工事が進められることになった。次いで同年7月定川掛制度が発足している。この制度は従来の定請負制から直営体制に転換されるものであり、直営主義の勘定所が土木技術行政を一元的に掌握したことを意味するものと見られる。...

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  • 天明二年「三春行楽記」前後(一) : 土山宗次郎と朝田伴七を中心に

    藤村, 潤一郎, FUJIMURA, Jun'ichiro 創価大学人文論集 (7) 26-79, 1995-03-01

    ...本稿では天明初期の狂歌界の交遊を通して勘定奉行所関係者と三井江戸両替店関係者との動向をみ、併せて飛脚問屋の動向についても考えたい。成稿に当り宮崎修多「大田南畝における雅と俗」から教示をうけたが、所詮私は雅に疎く俗が主であり、かつ国文学の知識が乏しいので本稿は初歩的なものである。...

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  • 江戸の下肥値下げ運動と領々惣代

    熊澤 徹 史学雑誌 94 (4), 482-511,562-56, 1985

    ...In the eleveth month of 1789 (Kansei 寛政 1), a confederation of villages around Edo lodged a complaint with the Bakufu's Taxation and Judicature Functionary (Kanjo Bugyo 勘定奉行) in a legal attempt to bring...

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