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検索結果 17 件

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  • 問屋制生産の原理と段階論(2)

    清水 真志 専修経済学論集 56 (3), 71-129, 2022-03-15

    ...しかしそれは,段階論のなかで前貸制に基づく問屋制家内工業だけが論じられてきたために,問屋制生産の原理的構造にたいする考察が不足していたことを意味する。原理的には,問屋商人自身が直営工場で最終工程を担当するタイプの問屋制生産や,問屋商人が中小規模の工場制生産を統括するタイプの問屋制生産など,多様な問屋制生産の展開を考えることができる。...

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  • 問屋制生産の原理と段階論(1)

    清水 真志 専修経済学論集 56 (2), 29-84, 2021-11-30

    ...宇野の段階論が提示するのは,重商主義段階の問屋制家内工業が「思わざる結果」として産業資本の勃興を招き,自由主義段階への移行を準備したという命題である。この命題では,イギリス国内の生産関係が「資本主義的関係の実体」として重視される一方で,国際的な問屋組織や外国貿易のもつ意義は不当に軽視されてしまう。...

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  • 産業革命発祥地、マンチェスターの産業地域社会形成と内部構造

    岩間 英夫 日本地理学会発表要旨集 2016s (0), 100148-, 2016

    ...その結果、旧市街地における商業資本の問屋制家内工業が衰退した一方で、水運沿いでは産業資本家による小規模な工場制機械工業が発展した。これによりマンチェスターは、綿工業による一極型から、多極型の単一工業地域へと変容した。...

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  • 景気低迷期における角館樺細工産業の産地構造

    高柳 長直 日本地理学会発表要旨集 2003f (0), 83-83, 2003

    ...しかしながら,問屋と職人による問屋制家内工業の的な形態は,明治期以来,基本的に引き継がれている。加工賃単価は,低い状態に据え置かれたままで,上代価格の3分の1弱が相場であり,問屋の側に価格決定権がある。原料桜皮の支給形態は減少したものの,職人側に販路と生産品目を選択する余地はほとんどはなく,一部の高級品を除くと,職人の名前がブランドとして市場で認識されることも限られている。 ...

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  • 十日町機業地域の形成過程

    土田 邦彦 新地理 16 (4), 1-18, 1969

    ...<br>(2) 近世中期より十日町の問屋を中核とし, これに隷属しながら, 中魚沼全地域に分布した問屋制家内工業地域。<br>(3) 明治初期より十日町を中心に集積したマニュファクチャーと中魚沼全地域にわたる出機をもって地域構成を行なったマニュファクチャー的生産地域。<br>(4) 大正以降十日町を中心に集積した工場制工業と出機地域を併行させた工場制工業地域。...

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  • 桐生機業圏の成立と発展

    斎藤 叶吉 人文地理 16 (4), 337-352, 1964

    The Kiryu textile industry began as a simple rural industry, but has developed in modern times into a widely diversified industry which has played a great role in developing this region. With the …

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  • 幕末における農村工業の展開過程 : 岡山藩児島地方の場合

    太田 健一 土地制度史学 2 (2), 24-34, 1960

    ...結果,次の諸点を明らかにし得たと思う.(1)岡山藩南部瀬戸内沿岸の交通の要衝に位置し,諸国物産との交易において早くから貨幣経済の滲透を受けた児島郡地方では,安永〜文政期にかけて急激なる農民層分解が生起し多量の貧農零細層が放出された.(2)かかる貧農零細層の余職として地域的に展開をみたのが,小倉物を主とする綿織物工業であった.漸次進展の方向を辿り,天保年間には独立的副業的家内工業,織元・賃機に分れての問屋制家内工業...

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  • <論説>小松絹の發展

    岩井 忠熊 史林 34 (1-2), 759-774, 1951-02-01

    ...小松絹はおそくも文化ごろから、織元から供給された原料に織屋が賃加工するという賃機制度がおこなわれ、全體として問屋制家内工業の段階にあつた。 暮末になつて小松絹は衰退するが、これは農村での絹織業の發達から壓迫をうけたためであり、藩とギルドの支配をうけるかぎりまぬがれなかつた。かくて藩は天保九年に糸絹仲の解散、嘉永六年に絹道會所の廢止を斷行し、小松絹ははじめて自由な發展の道をあゆむことになつた。...

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  • <論説>攝津平野郷における綿作の發展

    高尾 一彥 史林 34 (1-2), 713-733, 1951-02-01

    ...しかし、ここでなお殘された課題として、近世初期に既に農民の中に顯著な階級分化がみられる理由、農業經營としての綿作の初期の發展と後期のそれにおける歷史的相違點、また工業發展の視角からみてとくに幕末期の農工の分離過程と問屋制家内工業の實態、從つて町方に對する在方資本の分析といわゆる寄生地主制の檢討、ならびにそれらの歷史的評價を果しえなかつたことを遺憾とする。...

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