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検索結果 78 件

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  • 肥後宗像家文書を中心にみる天正十四年以降の宗像家の去就 : 謎の人物「宗像才鶴」の研究動向を含めて

    花岡, 興史 沖ノ島研究 8 39-66, 2022-09

    ...はじめに / 第一章 肥後宗像家文書の発見の経緯(二〇一九年九月十八日記者発表) / 第二章 秀吉文書の宛所にある宗像才鶴について / 第三章 宗像氏家督についての新発見史料(二〇二一年四月二十日記者発表) / 第四章 追加寄贈された肥後宗像家の新史料と宗像才鶴の正体(二〇二一年十一月二十四日記者発表) / 第五章 益田景祥が宗像家に養子に行った背景 / 第六章 市川与七郎が宗像家の養子に入り宗像清兵衛...

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  • [論文] 中世武家の置文と譲状

    田中, 大喜 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 224 53-73, 2021-03-24

    ...この置文の内容は、家督相続時に家督(隠居)と嫡子(次期家督)との間でのみ確認=公開され、そのほかの得分親たち=庶子はその場から排除されたと考えられる。一方、家法化された置文の内容も譲状に引用されるだけになり、それ自体が一族に公開されることはなくなった。こうして十五世紀以降、武家の置文は公開性を希薄化させ、「秘される文書」へと変容していったのである。...

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  • 相馬氏の受給文書と「相馬西殿」 ―戦国期・家督相続に関する基礎作業 ―

    岡田 清一 東北福祉大学研究紀要 45 1-18, 2021-03-18

    ...筆者は、かつて中近世移行期の相馬義胤発給文書を検討するなかで、相馬盛胤・義胤父子連署書状から、家督の段階的移譲を前提とする二頭政治が行われていたこと、しかも二人は異なる 城館を本拠としていることを指摘し、「二屋形」制と仮称した。本稿では、相馬氏の受給文書を検討し、「相馬西殿」宛の文書は、家督相続前の義胤宛のものであることが確認できた。  ...

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  • 鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗

    佐藤 雄基 史学雑誌 129 (10), 4-34, 2020

    ...<br> 得宗(北条氏の家督)は天皇・公家を包摂する国制像をもたなかった。鎌倉後期の治天は幕府への依存を深めながら、武家を包摂する国制像をもたず、得宗(北条氏)が天皇・親王将軍をそれぞれ支えるという国制となった。北条氏は公家政権の徳治主義を模倣し、独自に「文」を担うとともに、裁判を担うことを自己の任務としたが、天皇・公家と《距離を置く》ことを志向した。...

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  • 徳島藩伊賀者の基礎的研究

    井上 直哉 忍者研究 2019 (2), 1-13, 2019

    ...伊賀者の家格は「徒士格」で家督相続 の許された身分であった。これは、同じく堀尾家伊賀者にも由来を持つ、岡山藩の伊賀者と同様である。他藩の忍びと比較すると、藩主の護衛や他国の探索といった、職務の共通点が見られる。その一方で、待遇は藩によって大きく異なり、徳島藩の同じ伊賀者の中でも大きな差が見られた。...

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  • 享保期の家督出入に関する一考察 : 武州多摩郡五日市村土屋家の場合

    夏目 琢史 一橋大学附属図書館研究開発室年報 5 1-17, 2017-03-31

    ...本稿は、一橋大学附属図書館が所蔵する「五日市村文書」を紹介するとともに、18 世紀前半に五日市村名主土屋家で起きた「家督出入」の背景について検証したものである。とくに、この争論が、10 年以上も続いた背景に、村落構造の変質、名主の社会的地位の向上、百姓らの土地に関する観念の問題などが複雑に絡んでいた点を明らかにした。...

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  • 十九世紀前半彦根井伊家の身分構造

    梁 媛淋 日本研究 = NIHON KENKYŪ 53 127-151, 2016-06-30

    本稿は、1830年頃に譜代大名彦根井伊家で作成された分限帳を主な素材として、同家の身分構造を明らかにする。大名家の内部構造の解明は近世の政治体制を知るために重要であり、明治維新やそれに伴う武士身分の解体を考える手がかりとなるだろう。

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  • 交代寄合米良氏と人吉藩

    大賀, 郁夫 宮崎公立大学人文学部紀要 22 (1), 1-24, 2015-03-13

    ...本稿では交代寄合である米良氏について、その系譜を整理・検討し、人吉藩との関係から人吉藩支配米良山の成立過程、米良氏の家督相続、参府状況、領主仕置権の観点から検討を加えた。...

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  • <論説>室町期における大内氏の妙見信仰と祖先伝説

    平頼 直樹 史林 97 (5), 713-744, 2014-09-30

    ...大内氏は、道教の真武神的な妙見を象徴する幼名(亀童丸) を与えることで嫡子を琳聖太子になぞらえ、祖先伝説を家督争奪戦という現実の危機を回避するために役立てた。最後に、政弘の代で氏神(妙見) が守護神として始祖(琳聖太子) に結び付けられた上、興隆寺を中心とする妙見信仰の由緒が語られ、祖先伝説が体系化された。...

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  • 洛中洛外図屏風歴博甲本の制作事情をめぐって(Ⅱ. 洛中洛外図屏風と社会的背景)

    小島 道裕 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 180 107-128, 2014-02-28

    ...これに対して筆者は、描かれた事物の分析によって、室町幕府の実権を握る細川高国が、将軍足利義晴のために御所を自邸の付近に造り、家督を嫡子稙国に譲ったことを契機として、絵師狩野元信に発注した、という仮説を立てた。しかし、発表後に、これに対する批判も出されたため、今回の共同研究での成果も踏まえて、それらについて検討を行なった。...

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  • 出世双六にみる幕臣の出世

    髙久 智広 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 182 89-113, 2014-01-31

    ...またこれら二つの双六は「振出シ」や「家督」のマスにおいては、サイコロの出目というある種の運命によって振り分けられる武家としての身分的階層が、現実世界と同様に御目見以下の最下層に位置する中間から、最も上層の万石以上まで大きな幅をもって設定されており、そうした各家に歴史的に備わった家格=身分的階層が出世・昇進と密接な関わりを持っていることがゲームを通じて実感される構成となっている。...

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  • 安政元年のハザードマップ

    島津 俊之 日本地理学会発表要旨集 2013s (0), 316-, 2013

    ...梧陵と号したヤマサの七代目と同じく広と醤油醸造業(ジガミサ)を営む銚子を往来し,1894年に家業をヤマサの十代目儀兵衛に売却した古田荘右衛門は,家督を相続し咏処と号する前の,安政南海地震から二年半近く経った安政四年三月に,庄三郎致恭の名で『安政聞録』と題する被災記録を書き遺した。...

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  • 惣領番入制度と五番方 : 吉宗期の事例を中心に

    横山 輝樹 日本研究 46 45-100, 2012-09-28

    ...第二に経歴上の恩恵、即ち、家督相続が遅れた場合であっても部屋住のままで番入できるという恩恵である。部屋住のまま年月を過ごし、家督相続をした段階で既に高齢になっている。惣領番入制度による番入はそのような事態を回避するための有効な手段なのである。第三に、昇進への影響である。惣領番入制度は、家督相続前に得た勤務年数を家督相続後の勤務年数に上乗せし、昇進に影響を及ぼすのである。...

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  • 若き日の小津久足

    菱岡 憲司 雅俗 11 14-29, 2012-06-10

    ...一、はじめに / 二、生い立ち / 三、春庭入門から家督相続まで / 四、家督相続から有郷後見まで / 五、おわりに...

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  • 惣領番入制度、その成立と意義 : 吉宗期の武芸奨励と関連して

    横山 輝樹 日本研究 45 51-113, 2012-03-30

    本研究は、八代将軍徳川吉宗が幕臣に対して実施した武芸奨励策の中で、これまでほとんど論じられなかった惣領番入制度について分析するものである。従来の研究で論じられた吉宗の武芸奨励とは、弓馬上覧や古式射礼の復興、海外馬術の研究、狩猟の復活等である。士風刷新という目的のため広範な奨励が実施されたことは分かるが、それは吉宗の個人的な嗜好に負うものであって、吉宗の引退後であっても受け継がれるものであるとは言…

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  • <b>上杉鷹山とリスク管理 </b>

    角屋 由美子 安全工学 51 (4), 206-214, 2012

    ...<p>米沢藩は,上杉謙信を家祖とする名門上杉氏を領主としていたが,米沢藩初代藩主となった上杉景勝は,関ヶ原の戦いで敗者となり,会津120 万石の大大名から米沢30 万石に減封となった.さらに三代藩主上杉綱勝の急死に伴う養子手続きの不手際により,鷹山が上杉家の養子となり家督を相続した時は,領知は15 万石まで激減していた.鷹山は,財政難に苦しむ米沢藩の藩政改革に生涯をかけて取り組み,成功に導いた藩主であった...

    DOI Web Site 参考文献9件

  • 『寛文十二年卯月廿八日 瀧本坊書状』について

    新田 和央 同志社大学歴史資料館館報 (14) 22-23, 2011-10-30

    ...本書状は安芸広島藩の家督相続に際し、相続を祝って滝本坊から広島藩の支藩であった備後三次藩の当主浅野長照へと送られた書状であることが明らかとなった。滝本坊は石清水八幡宮に属した男山四十八坊のひとつで、松花堂昭乗の出身坊として著名であるが、当該期の「瀧本坊」が誰であったのかは判然としない。しかし、大名家と石清水坊院との関係を捉える上で貴重な史料であると言える。...

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  • 養子相続とファミリービジネス : 近代日本富裕企業家・商人層の事例から

    中岡 俊介 社会経済史学 76 (4), 593-608, 2011

    ...本稿は,近代日本のファミリービジネスが持つ独自性の一つでありながら,これまでほとんど考察が行われてこなかった養子による家督相続に焦点を当て,その特徴や傾向に基づき類型化を図り,分析を試みたものである。ここでは養子縁組までの経緯などを文献や資料から収集することが容易であると考えられる富裕企業家・商人層を分析対象とし,具体的に,養子による家業やビジネスの相続経緯や背景などを示している。...

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  • 狩野派・住吉派・板谷派合作の大英博物館蔵「竹林七賢人図」について

    下原, 美保 鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 = Bulletin of the Faculty of Education, Kagoshima University. Cultural and social science 62 1-10, 2010

    ...さらに、本作品は御用絵師七名が手がけているにも関わらず、厳格な公性が認められないため、嘉永元年(1848)における狩野永悳立信の家督就任を記念して制作されたと推測した。当時の御用絵師の制作状況を伺い知る意味で、本作品は貴重な存在ということができる。...

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  • 洛中洛外図屏風歴博甲本の成立と初期洛中洛外図屏風諸本

    小島 道裕 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 145 317-347, 2008-11-30

    ...最も古い「歴博甲本」は、一五二五年に、室町幕府の実権を握っていた細川高国が、嫡子稙国への家督譲渡と新たな将軍御所の建設を契機として、自らの事績を描かせたものであり、作者は幕府御用絵師の狩野元信である。「東博模本」は、細川晴元の政権を中心主題として描いたものであり、「上杉本」は、細川氏の館を中心とする構図をそのまま用いながら、管領が細川氏から上杉氏に代わるというメッセージを表している。...

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  • 十九世紀初頭における桐生新町の住民構造

    岩城 卓二 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 95 65-85, 2002-03-29

    ...そして、奉公人を雇用する借屋は文政期と変わらずに存在しており、家督相続によって親と同居する借屋も着実に増えている。また、借屋は十九世紀初頭を通じて激しく流出入を繰り返していた。五年以内で流出する者が借屋の半分近くを占めており、桐生新町が安住の地とならなかったことが知られるが、一方で家持とともに職業仲間の一員となり、長く同町に根付く者もみられた。...

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  • 医学館で行われた口科考試について

    "戸出,一郎, 別部,智司, 雨宮,義弘" 日本歯科医史学会会誌 24 (3), 167-175, 2002-03-29

    ...すべてに大きな影響を与えたものの様に思われる.成績のよかったものは忽ち昇進し,悪かったものは没落している.仮に昇進は実力で,試験の結果は影響しなかったとしても,試験の成績とその後の昇進が明確に一致している事実は否定の仕様がない.またこの考試はその内容を見れば,古典を身につけ実技を重ねていなければ答え得ないような問題ばかりであったから試験の成績はよく実力を表していたのであろう.注目すべき事は,当時,家督制度...

    NDLデジタルコレクション 医中誌 参考文献6件

  • 継承の人口社会学

    米村 千代 家族社会学研究 13 (2), 61-61, 2001

    ...各章の冒頭に分析可能事例を明記し, 継承件数, 先代家督者の子の数, 男子数, 先代家督者との関係別にみた家督継承者, 養子件数などが, 史料が許す限りにおいて石高別, 時代別に示され, これらの数値を基礎として副題にある「誰が『家』を継いだか」を明らかにしていく。<BR>分析の主点の1つは, タイトルに掲げられている「人口」的要因にある。...

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  • <共同研究報告>萩藩藩士における家計の継承と人口学的要因

    坪内 玲子 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 22 111-129, 2000-10-31

    ...日本の伝統的な家族制度の下では、長男による家督の継承が原則であり、この原則は武士階級において遵守されていたと考えられている。実際には、人口学的な状況のために、長男による継承は必ず行われたわけではなく、長男早世のため弟が継承する場合があった。さらには、高い死亡率や低い出生率を背景に、婿養子や養子による継承が顕著な場合があった。...

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  • 林業労働力の供給構造と林業労働者の意識

    藤掛, 一郎, 赤尾, 健一 京都大学農学部演習林報告 (64) 102-116, 1992-12

    ...(1) 林業労働者の多くは「家督相続」の慣習に強く規定された就業行動を取っている。このことは, (1-1) 現代においては林業労働力供給源としてUターン者が重要であることを意味していると同時に, (1-2) 林業労働力供給源の貧弱さをも示している。従ってより幅広い層から林業労働者を集める必要がある。(2) より具体的な対策としては待遇改善が急務である。...

    日本農学文献記事索引 HANDLE Web Site

  • 家督相続の地域的なひろがり : 本州最北端・下北半島東通村を中心として

    前田, 卓, 藤田, 道代, 山本, 準 関西大学社会学部紀要 16 (1), 167-202, 1984-12-21

    ...そして,この中でも特に長女が家を相続し,第二子以下に生まれた長男を婿に出すか,分家させる慣行を姉家督相続と呼ぶ。この姉家督を行なっている庶民の間には,現代の男女同権とは多少意味の異なった,いわゆる素朴な男女平等の思想がみられた。ところが妻の従順が美徳とされた儒教的武士的道徳が庶民の間にも浸透してきた明治の中頃に,この姉家督の慣行は衰退する。...

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  • <論説>戦国期の守護権カ : 出雲尼子氏を素材として

    今岡 典和 史林 66 (4), 455-481, 1983-07-01

    ...これに対して尼子氏は、京極氏一族の守護権限代行者として近江から出雲に入り、経久の代に京極氏の家督と守護権を継承し、更にそれを幕府によって認定されている。尼子氏は戦国期における幕府―守護体制の一環に加わる事により、早期に一国支配を実現し得たのである。...

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  • 家督相続についての一考察

    森 謙二 法社会学 1979 (31), 117-140,234, 1979

    Inheritance of the first-born child ("Ane-Katoku Sozoku" in Japanese) refers to a system which stipulates that if a female happens to be the first-born child, then she (saying exactly, her adopted …

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  • シュメール都市國家時代の家族に就いて : 血族と稱呼との考察

    中原 與茂九郞 史林 33 (2), 164-179, 1950-04-05

    ...都市國家時代に於ては個々の事例では父系が壓倒的ではあるが、そして、記錄的には小量の事例が女系によつて即ち婿によって血統が傳えられたことを示し、且つグデアの時代には女子の家督相續が男子がない場合という條件付で國王によつて規定されたりなどしているので血統は父母兩系によつて傳えられたと考えてよい。次に宗敎思想のうちに血統觀念が如何に反映されているかを宗敎的文献や國王碑文によつて考察した。...

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  • 松浦黨の發展及び其の黨的生活 (中)

    長沼 賢海 史淵 11 15-62, 1935-06-30

    ...第四章 黨的生活 / (一) 政治上に於ける黨的生活 / (二) 家督、財産等の相續に關する黨的行動 / (三) 經濟的生活殊に漁業に關する黨的理想 / 第五章 上松浦黨の諸氏 / (一) 斑島氏 / (二) 佐志氏の諸家 / (三) 斑島氏と東松浦黨との關係 / (四) 石志氏 / (五) 相知氏と大河野氏 / (六) 其の他の諸氏...

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  • 大隈言道自筆資料『自詠集中抄』 : 小林重治家集

    シントウ, ヤスコ, Shintou, Yasuko 10 (1), 80-74,

    ...天保7年、言道は歌に専念するため、39歳で弟に家督を譲り、福岡今泉の池萍堂(ささのや)に隠棲する。当時、鞍手古門神社の伊藤常足が、筑前北部、芦屋、黒崎、下関などの地域の人々を教育していたのに対して、言道は、福岡を中心として下級武士や町人達の和歌の指導を行った。早良、糸島、姫島、福間、久留米、田代、吉井、飯塚などに多くの門人を持った。...

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