検索結果を絞り込む

本文・本体へのリンク

検索結果 38 件

  • 1 / 1

  • 長州、浄土真宗と王政復古

    DENECKERE Mick 世界の日本研究 2022 74-85, 2023-03-15

    In the 1860s, an alliance of the Satsuma and Chōshū domains succeeded in overthrowing the Tokugawa regime, leading to the Meiji Restoration in 1868. Next to the economic, political, social, and …

    DOI 機関リポジトリ

  • 朱舜水がもたらした連帯原理の「僕」

    れいのるず秋葉 かつえ ことば 41 (0), 122-138, 2020-12-31

    ...日本語化が進行した時点からは、尊王攘夷の志士たちの書簡において連帯を呼びかける自称詞として「僕」が急速に広がっていったこと(れいのるず2018)に意味的に自然につながる。「僕」が漢語において連帯の自称詞であったとするならば・・・。</p>...

    DOI Web Site

  • 尊王思想と出版統制・編纂事業

    清水 光明 史学雑誌 129 (10), 34-55, 2020

    ...本稿の目的は、近世後期の尊王思想の流通について、幕府の政策(出版統制と編纂事業)との関係で再検討することである。ここでいう尊王思想とは、大政委任論・「みよさし」論・朝廷改革構想・尊王攘夷思想等を念頭に置いている。先行研究は、これらの尊王思想に関してその形成過程や機能に着目してきた。...

    DOI Web Site Web Site

  • 藤田東湖の『孟子』観 : 徂徠学派との比較から

    武石 智典 研究論集 15 81-92, 2016-01-15

    ...後期水戸学は、藤田幽谷(一七七四〜一八二六)にはじまり、高弟である会沢正志斎(一七八二〜一八六三)、子息である 藤田東湖(一八〇六〜一八五五)らによって水戸藩の藩内にのみ影響力を持つ学問から、幕末に「尊王攘夷」運動の理論的 支柱となり、全国的に影響力を持つ学問へと変容していった。...

    DOI HANDLE Web Site

  • 日本政治史における急進主義の問題(二完)

    溝部, 英章 産大法学 44 (3), 651-728, 2010-11

    ...きる 第二節 急進主義の宗教的次元、世俗的救済への関心 第三節 急進主義とは何か 第四節 三大改革を促した民衆の心意 第五節 近代化とは〈ハレをケへと昇華する〉こと 第六節 明治維新への道の起点、マルサスの罠(以上、前号) 第七節 民衆世界への介入、なぜそれが可能になったのか(以下、本号) 第八節 丸山真男の「政事(まつりごと)の構造」と「忠誠と反逆」 第九節 小沢一郎、「忠誠と反逆」 第一〇節 尊王攘夷思想...

    機関リポジトリ HANDLE Web Site

  • 日本政治史における急進主義の問題(一)

    溝部, 英章 産大法学 44 (2), 243-323, 2010-09

    ...第一節 近代を生きる 第二節 急進主義の宗教的次元、世俗的救済への関心 第三節 急進主義とは何か 第四節 三大改革を促した民衆の心意 第五節 近代化とは〈ハレをケへと昇華する〉こと 第六節 明治維新への道の起点、マルサスの罠(以上、本号) 第七節 民衆世界への介入、なぜそれが可能になったのか(以下、次号) 第八節 丸山真男の「政事の構造」と「忠誠と反逆」 第九節 小沢一郎、「忠誠と反逆」 第一〇節 尊王攘夷思想...

    機関リポジトリ HANDLE Web Site

  • 幕末中央政局における「皇政回復」 : 島津久光率兵上京を中心として

    町田, 明広 佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 38 127-143, 2010-03-01

    ...皇政回復の根本的な相違は、久光に対し、岩倉や尊王志士は真の天皇親政を目指していた事実にあった。しかし、岩倉は性急な武力を伴う天皇親政への移行は否定しており、また、当面の大政委任は過渡的措置として容認していたため、尊王志士とは対立構造に見え、一方、久光との違いは一見して類別し難いものであった。...

    機関リポジトリ Web Site

  • 辜鴻銘のキリスト教認識と批判

    畠山, 香織 京都産業大学論集. 人文科学系列 39 41-55, 2008-03

    ...目 次 はじめに 1 辜鴻銘と『尊王篇』  (1)辜鴻銘について  (2)『尊王篇』について 2 『尊王篇』に見る辜鴻銘のキリスト教認識  (1)辜鴻銘とキリスト教との関わり  (2)『尊王篇』に見るキリスト教についての言及  (3)『春秋大義』(The Spirit of the Chinese people)などの著書にみる宗教観 終りに...

    機関リポジトリ HANDLE Web Site

  • 常陸鴻巣からの発信

    木内 造酒夫 日本醸造協会誌 101 (6), 370-375, 2006

    ...儀兵衛は水戸藩の藤田東湖と姻戚関係にあり, 尊王思想を支援し, 酒の名を「菊盛」とした。その基本にはすべて「こだわり」がある。顔が見える人々により作られた最上の原料と, 創業以来枯れを知らない井戸水。これらの材料と優れた技術が組み合わさり, こだわりの旨さが表現されている。<BR>木内酒造の歴史に新たに加わったのが,「常陸野ネストビール」である。...

    DOI

  • <論説>幕末における御前会議と「有司」 : 日本絶対主義形成の特質について

    井上 勝生 史林 66 (5), 599-647, 1983-09-01

    幕末の長州藩を素材として、藩体制の絶対主義化の前進を検証し、絶対主義化の要となった権力機構、推進者、そして権力闘争の展開を検討する。これによって、形成過程の日本絶対主義と幕藩体制の連続の問題、および絶対主義の日本的特質の一端が明らかになると思う。長州藩の藩体制の絶対主義化は、安政五年の藩政改革から始まる。要となった権力機構は、従来から存在した御前会議である。この改革によって、御前会議は、「規格(…

    DOI HANDLE Web Site

  • 谷三山の尊王攘夷思想について

    大月, 明 人文研究 33 (12), 792-806, 1981

    一 谷三山の存在を知ったのは、彼より九歳年下になる森田節斎との筆談を見た時であるが、その筆談は、中井竹山と履軒、特に履軒学への高い評価を中心にして、十九世紀初めまでの儒学界を語るとともに、三山と節斎の学問と人物とがうかがえるものであった。……

    機関リポジトリ Web Site

  • 藤田幽谷研究ノート

    大月, 明 人文研究 29 (4), 227-247, 1977

    一 横井小楠は、江戸にあった天保十年十一月二十五日に兄の左平太宛に、「来春は......二月余寒退き候時節より水府に遊学仕筈にて......。……

    機関リポジトリ Web Site

  • 中井竹山について

    大月 明 人文研究 23 (10), 772-782, 1972

    ...一 文化八年に大和国五条の医師の家に生まれ、慶応四年七月に五十八才で亡くなった森田節斎は、猪飼敬所・頼山陽や昌平黌に学び、自らは吉田松陰や頼三樹三郎らの師であったが、熱心な尊王倒幕論者であり、運動家であった。……...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • 明治前期(1872~1903年)における歴史教育方法の研究

    吉田, 太郎 横浜国立大学教育紀要 8 123-139, 1968-12-20

    ...歴史教育によって明治14年以後の教則によるごとく尊王愛国心に励むようなことは,この時代にはまだ見られない。ただ教科書の基調が君臣の分を重んずるのであるから,読誦する間に自ら尊王心の方が強く印象づけられたと思う。しかし教師によっては,尊王愛国の思想を史実に托して強烈に教えたことはあり得たと思われる。...

    機関リポジトリ Web Site

  • 前期水戸学者の一考察 : 三宅観瀾と栗山潜鋒

    大月 明 人文研究 19 (8), 627-660, 1968

    ...一 はじめに : 幕末、天保期以降の尊王攘夷思想の展開が、やがて討幕運動へ発展し、明治維新成功の原動力となっていったことは、改めていうまでもないが、幕末から明治期にかけての尊攘思想家から討幕論者に及ぶ、志士や読書人たちの思想的系譜を後づけてみると、そこには多少なりとも、いわゆる水戸学との関係があったことが、多くの人々に認められるのである。……...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • 1 / 1
ページトップへ