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福田 智子 文化情報学 16 (1-2), 88-84, 2021-03-31
...従来、徳川秀忠が娘の千姫の輿入れに際し作らせた嫁入り本である可能性が指摘されていた。そこで、改めて検証してみると、写本が収められている箱の表に、清和源氏義光流、小笠原家の家紋「三階菱」が記されていることに気づく。この箱がお通書写本と同時に製作されたものとするならば、お通の活躍時期に、嫁入り本を必要とする可能性のある女子として、慶長五年正月、松平阿波守至鎮に嫁した、小笠原秀政女、萬姫が浮上する。...
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Cross, Tim 福岡大学人文論叢 52 (1), 381-406, 2020-06
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白峰 旬 別府大学紀要 61 87-100, 2020-02
type:text
越坂 裕太 鷹・鷹場・環境研究 2 89-114, 2018-03-20
はじめに / 一 『元和寛永小説』の伝来状況 / ニ 『元和寛永小説』の内容・記者について / 三 『元和寛永小説』にみる秀忠と鷹 / おわりに : 「覚書史料論」の構築に向けて
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高橋, 修 東京女子大学紀要論集 68 (1), 99-124, 2017-09-15
...表題の崇源院は江戸幕府二代将軍徳川秀忠の正室であった江(1573~1626)のことで、崇源院とは彼女の死後の贈名である。彼女は寛永3年(1626)に江戸城内で死去し、その遺骸は火葬に付され、増上寺に埋葬された。...
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木土 博成 史林 99 (4), 525-557, 2016-07-31
...「御代替」(徳川秀忠→家光) を名目に、薩摩藩が急遽仕立て上げたこの一行を、琉球使節の嚆矢と見ることはできない。寛永一一年には、家光が島津氏に琉球高を宛て行ったことから、琉球が島津氏に属するという側面、すなわち「附庸」が確定したのであった。...
白峰, 旬 史学論叢 45 37-54, 2015-03
白峰, 旬 別府大学大学院紀要 17 1-16, 2015-03
童門 冬二 日経ベンチャー (253) 98-101, 2005-10
...徳川秀忠が、大久保忠ただ隣ちかに命じて召集させた二代目大名の会「談判の会」は、早速、江戸城内で開かれた。秀忠はニコニコ笑いながら、趣旨を説明した。 「父、家康は、何かにつけて『貞観政要』という中国の古い帝王学の本を読んでおられた。...
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童門 冬二 日経ベンチャー (252) 104-107, 2005-09
慶長八(一六〇三)年に征夷大将軍になった家康は、二年後の慶長十(一六〇五)年に、その職を息子の秀忠に譲った。これは家康が、秀忠の有能ぶりを認めたからではない。 家康にしてみれば、大坂城の豊臣家に対し、 「征夷大将軍職は今後、徳川家の世襲とする。絶対に豊臣家には政権を譲らない」 ということの宣言であった。
武田, 万里子 史学 68 (1/2), 123-143, 1999-01
中根,賢 小田原市郷土文化館研究報告 29 45-54, 1993-03-12
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鎌田 道隆 奈良史学 (10) 46-63, 1992-12
...三代将軍徳川家光に将軍職をゆずりながら、なお大御所として幕府政治の実権をにぎっていた徳川秀忠が、寛永九年(一六三二)一月二十四日没した。この二日後の出来事として、『徳川実紀』は次の記事をかかげている。又此日、目付宮城甚右衛門和甫京坂に御使し、こたび御大喪により、関西の諸大名江戸にまかるべからず、各封地堅固に守り、前令違犯すべからずとの御旨をつたえしめ、女院の御方にも御使をつとめしめらる。...
藤川 昌樹 学術講演梗概集. F, 都市計画, 建築経済・住宅問題, 建築歴史・意匠 (1992) 1017-1018, 1992-08
日本建築学会
笠谷 和比古 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 3 35-63, 1990-09-30
徳川幕府体制の下での特異な政治的問題の一つとして、「大名改易」のあったことは周知の通りである。それは軍事的敗北、血統の断絶、法律違反などの諸理由に基づいて、大名の領地を幕府が没収し、当該大名がそれまで保持してきた武家社会内での身分的地位を剥奪してしまうものであった。徳川時代にはこの大名改易が頻繁に執行され、結果的に見れば、それによって幕府の全国支配の拡大と安定化がもたらされたこと、また改易事件の…
久保 文武 奈良史学 (6) 29-51, 1988-12
...徳川秀忠の息女和子が元和六年(一六二〇)六月十八日、後水尾天皇の女御として入内したが、武家側よりの入内は約四百年前平清盛の女徳子(建礼門院)入内以来のことで、この件が決して円滑にはこばなかったことは周知の事実として、江戸初期の朝幕関係を物語る格好の史料とされている。...
西田, 直敏 北海道大學文學部紀要 30 (2), 129-191, 1982-03-29
記事分類: 文学・語学--言語・言語学--日本語
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平出 久雄 東洋音楽研究 1965 (18), 232-234, 1965
...前号「資料」所収、霜田氏所蔵の掛軸の紙背裏打文書にみえる記録は、たしかに寛文三年九月に行なわれた二條城に後水尾帝の行幸をあおぎ、徳川秀忠・ 家光が歓待をつくした記録の断簡には違いない。示された記録以外に二行ほど断片がある由だが、九日の部分だけを収載したと注記されている。...
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