検索結果を絞り込む

本文・本体へのリンク

検索結果 37 件

  • 1 / 1

  • 『中観五蘊論』にみられる経典引用――著者問題の根拠として――

    横山 剛 印度學佛教學研究 69 (3), 1093-1098, 2021-03-25

    ...</p><p>まず,冒頭において,慧の心所も含めて同論全体の経典引用を整理する.続いて,慧の心所以外における引用として,(I)所触,(II)尋伺,(III)軽安不軽安,(IV)慚の定義における引用について検討する.翻訳ならびに対応する経典資料を示した上で,それらの引用が法と法との関係の教証としての役割を担っていることを指摘し,無我の教証である慧の心所における引用とは役割が異なることを明らかにする....

    DOI Web Site Web Site 被引用文献2件 参考文献2件

  • "不"的语义、句法特点及与"到底"的区别

    褚 玉玲 中国学志 35 1-19, 2020-12-20

    ...さらに、収集した例文において、字面は副詞"不"と同じであるものの、副詞ではない用法も多数見られたため、それらの実例を挙げつつ分析を行った。中国のインターネット上においても動詞“无”との混同から生じた"不"の誤用が多く見られることもあり、本稿では動詞"无"との使い分けを踏まえつつ、日本人学習者に有益と思われる副詞"不"に関する教授法を提起した。...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • 植村正久の日露戦争論──可戦論における文明・戦争・キリスト教──

    吉馴 明子 人文科学研究 : キリスト教と文化 (48) 139-167, 2016-12-15

    ...夫婦の道明かならず、 妻妾を擁してづることを知らざる。命の意義に深く通ぜず、自殺を罪悪と見 做すこと能はざる、といった諸点である。これを矯正するのは、「開国の精神 を振起」することによる。それは、「維新の改革」において「士の常職を解い て四民同等の制を定め」たことから始まり、個人主義の確立、立憲自治の種子 となった「精神」である。...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • 02社−26−口−33 弱肉強食を否定する「他者救済」思想を実現する生涯スポーツとしての野外活動

    倉品 康夫 日本体育学会大会予稿集 67 (0), 106_3-106_3, 2016

    ...スポーツ報道の定番とはこの弱肉強食界の祝福である▲大衆はスポーツ礼節を無視した場面(勝者:夢が実現した慚無き勝者の驕りvs敗者:挫折者として身も世もなく泣き崩れる)を見て一喜一憂し「一将功成りて万骨枯る」の格差社会の縮図を祝福する▲嘉納は「人として社会にたつ以上は社会の存続発展に適応する行動を取らざるを得ない。...

    DOI

  • 社会福祉の「対象論」再考

    田中 治和 東北福祉大学研究紀要 37 21-40, 2013-03-22

    ...あわせて、慙(恥じ入ること)の重要性を確認し、この欠如が、社会福祉の歴史的、また実践的な誤りを招来させたことを、具体的例示でもって指摘した。...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • 『教行信証』における戒律と倫理

    中山, 彰信 九州情報大学研究論集 = Bulletin Kyushu Institute of Information Sciences / 研究論集編集委員会 編 11 149-160, 2009-03

    ...それは無慙無の身である。故に、『歎異抄』に悪人正機説を示される。そのことは、宗教的世界観における立場の告白でもある。それは根本的内観に気づかされる面から生まれる善悪と考えられる。故に、親鸞の倫理観は世俗的倫理観とは異なる宗教的絶対的倫理観の中で捉えられていると考える。戒律・倫理には一部では共通な面が捉えられるようである。...

    機関リポジトリ Web Site

  • なむあみだぶにこころとられて : 妙好人浅原才市の詩

    岡村, 康夫 山口大学哲学研究 9 45-78, 2000

    ...また、才市の詩の多くは「慚と歓喜」あるいは「あさましやありがたや」と言われる対極的宗教感情の緊迫関係のなかで歌われる。それは徹底した自己否定であると同時に自己肯定であるような宗教的感情の直接的吐露である。ただし、「あさましや」は単なる自虐的自己卑下の言葉ではない。才市の詩のなかでは単なる自己内反省的自己は徹底して追い詰められ、その自己追窮の果てに逆転的に新たな世界が開かれる。...

    Web Site Web Site

  • 大田南畝の自嘲(<特集>近世・笑い)

    池澤 一郎 日本文学 47 (10), 37-47, 1998

    ...かたや正格の漢詩文を集成した自筆詩稿『南畝集』には現実肯定的な「笑い」はむしろ稀であり、漢詩文特有のポーズとばかりは見なし得ない悔恨・慙・絶望といった暗い心情を窺わせる作が目立つ。同じ「笑い」といっても情念の翳りを反映する自嘲が過半を占めるわけだ。自嘲の矛先は、南畝の下級官吏としての境遇や、詩文の才の欠如、戯作に手を染めて虚名を博したことなどの諸点に向けられている。...

    DOI

  • 李善の「上文選注表」について

    富永 一登 広島大学文学部紀要 55 73-92, 1995-12-20

    ...善文不多见, 即以此麦观之, 闳括瑰丽, 较之四杰·崔·李诸家, 殊无色。则所谓不能属辞者, 殊不待辨。" 既批判了『新唐书』的记载, 且又指出了李善的文才很高。可是, 时至今日对于该表, 似乎尚未出现令人称道的释义。 据此, 本文试对「上文选注表」作一译注, 冀以究明李善骈文创作之文才。...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • 国学における教化論の性格(2) 幕末維新期の二人の国学者の考察を通して

    山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 68 (1), 35-45, 1985

    ...「八雲立つ出雲の神に神習ひ習ふや道の学問なるらむ」「幽世の神の御前を畏みてる心を人なわすれぞ」と詠んだ、下総の農民、宮負定雄はそのような国学者の一人であった。神習ふとは人々が神の御心を行動の規制原理として心の内に持つことを意味した。そこで期待されている行動とは「身を慎み、身分に応じて、世の為人の為に、それぞれの功を立て」るということに包括されうるものである。...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • 日本の湖水の水素イオン濃度(下)

    吉村 信吉 地理学評論 7 (11), 943-969, 1931

    ...殊に元來半通俗的に書いたので決して論説と稱すべきものでなく詳細の議論をも省いたので、非常に不完全で慚の次第に堪えないものとなつた。本文中田の逆轉沿岸帶と沖帶の比較に關する部分は近く發表する拙著英文論文中に詳説する積りであるし又本文全體は改訂の上Archiv für Hydrobiologieに發表する豫定であるが、それらが本文の多少の補ひともなれば幸である。...

    DOI

  • 1 / 1
ページトップへ