検索結果を絞り込む
島本 多敬 日本地理学会発表要旨集 2021s (0), 84-, 2021
...づいている.布令によれば,提出期限は翌年1月20日で,各村が属する区の区長が取りまとめて県に提出するよう定めている.また,土地利用に応じた彩色区分や記すべき文字情報などが例記され,記載を求めた主な項目には,</p><p> ・堤防の長さ,直高(堤内・堤外),馬踏と根敷の幅</p><p> ・河川および用水路の幅</p><p> ・水制工(杭,牛など)の規模</p><p> ・堰・樋の法量</p><p> ・往還・脇往還...
DOI
常任委員会 交通史研究 90 (0), 57-63, 2017
DOI Web Site
清水 克志 日本地理学会発表要旨集 2009s (0), 60-60, 2009
...江戸近郊においても,五街道とその脇往還の沿道などに多くの種苗商の存在が確認できる。その中でも中山道沿道の滝野川地区(現,東京都北区)を中心とする地域は,種苗商が集中し,さながら野菜種子の問屋街のような様相を呈していた。また1885(明治18)年に板橋駅が開設されると,滝野川地区の野菜種子の流通範囲は,一層広域化したとされている。...
高正 晴子, 小島 朝子 一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集 56 (0), 178-178, 2004
...目的 江戸時代、北陸の諸大名は参勤交代に江戸への近道である北国脇往還を利用し、この街道にある小谷宿の本陣を常宿とした。小谷宿は二宿一駅とされ、江戸への上りは伊部宿、国表への下りは郡上宿とされた。伊部宿の本陣に残されている肥田家文書により、小谷宿における宿泊や小休時の献上品、自身賄、本陣賄等を明らかにする目的で本研究を行った。...
加来 耕三 日経ベンチャー (225) 124-127, 2003-06
...だが、江戸時代、小諸は単なる城下町としてだけではなく、中山道の脇往還である北国街道の主要宿場町として、関東から信州への入口にあたり、逆からみれば信州中の品物が一度、この地に集められ、改めて関東へ送られた。商圏の、中継ぎの場でもあったわけだ。 ちょうど、扇の要のような立地であったと思えばよい。...
PDF Web Site
藤永 豪 日本地理学会発表要旨集 2003s (0), 000009-000009, 2003
...保福寺町地区は江戸期に,中山道に通じる北国脇往還西街道の宿場町として栄えた。しかし,明治期に入ると輸送の中心は鉄道へと移り,宿場町としての機能は衰退した。その後は農林業を主軸とする山村へと変貌していった。第二次世界大戦終了後から1960年代半ばまでは,農林業とともに養蚕や製炭が盛んであったが,高度経済成長期以降は,農外就業者が増加した。同時に,若年人口の流出が顕著となり,児童数も減少した。...
石末 順子, 吉見 静子 東海支部研究報告集 (37) 909-912, 1999-02-13
日本建築学会
加瀬, 恵子 地理学報告 75 33-50, 1992-12-01
type:text
機関リポジトリ Web Site
池田 昇 交通史研究 18 (0), 65-66, 1987
池田,昇 小山市史研究 3 60-84, 1981-03-31
桜井, 芳昭 地理学報告 47 32-39, 1978-05-28
原沢 文彌 新地理 4 (3), 16-36, 1955
This is a historical-geographical study of “Odo-dori, ” a by-road so-called in the Yedo period.<br>The road ran from Suzaka, Shinshu, throngh Nire (a stage), over Torii pass, on to Osasa (a stage), …