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検索結果 57 件

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  • 德川吉宗治世期に来日した黄檗僧

    松浦 章 東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian cultural interaction studies 17 343-355, 2024-03-31

    The monks who came to Japan from China in the early modern period were called Tang monks. The Tang monk Zhenyuan, who came to Nagasaki in the 6th year of the Yuanwa era (Ming Dynasty Taichang 1620), …

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  • 独立性易の三教一致論批判について

    賈 光佐 印度學佛教學研究 71 (2), 521-524, 2023-03-22

    <p>Duli Xingyi 独立性易 (1596-1672, Dokuryū Shōeki, better known perhaps as Ōbaku Dokuryū) went to Japan during the transition between the Ming and Qing dynasties and became a monk. He has been, based …

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  • 大潮元皓の生涯

    若木 太一 雅俗 19 48-72, 2020-07-15

    一 大潮の出自 : 父と母 / 二 兄弟 : 一麟浄超居士墓碑銘 / 三 普門松雲禅師伝 / 四 大潮の家系図と大潮年譜稿

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  • 長崎聖福寺の庭の変遷に関する考察

    孫 旻愷, 五島 聖子 日本庭園学会誌 2020 (34), 34_13-34_23, 2020

    聖福寺には、もともと広い庭があり、現在でもその一部と思われる庭が残っている。この庭には唐寺としてのデザインと機能が注目されるが、今まで聖福寺の庭を対象にした調査研究はされていない。また、保全や整備策も講じられていない。そこで本研究は文献調査と実測調査をもとに、庭の歴史的変遷および現状を把握し、分析した。その結果聖福寺の方丈の庭は、禅寺の方丈の庭であるが座観のための庭ではなく、近代数奇庭園の前身と…

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  • 臘八摂心の形成――流行と定着――

    小川 太龍 印度學佛教學研究 68 (1), 108-114, 2019-12-20

    <p>The intensive meditation retreat known as Rōhatsu sesshin 臘八摂心, held every year in Japanese Zen monasteries from the morning of December 1<sup>st</sup> to the dawn of December 8<sup>th</sup>, …

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  • 日本華僑の共同墓地と后土・土地神の考察 : 日本国内の華僑霊園の地域差に注目して

    松尾 恒一 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 199 213-232, 2015-12-25

    ...神戸・横浜の中華義荘(横浜は入口に建てられる「地蔵王廟」が,霊園全体の通称となっている)がそれで,その後,神戸から分化して,京都華僑のための京都華僑霊園が黄檗宗萬福寺に開かれる。一方,近世の鎖国政策のもとでも中国との交易が続いていた長崎には,崇福寺をはじめとする唐寺や稲佐悟真寺等に,唐人墓地が併設される。...

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  • 神護寺蔵「和気氏三幅対」の成立と訓釈(補訂)

    若井, 勲夫 京都産業大学論集. 人文科学系列 48 440-431, 2015-03

    ...この三幅対とは、江戸時代初期に高雄山神護寺の開創に関はる和気清麻呂の後裔の半井瑞雪が同寺の復興に寄与するとともに、先祖清麻呂の功績を振返り、その後の和気医学の道統を顕彰するために、和気氏の三名を選び、その肖像画に三名の禅僧(黄檗宗、臨済宗)それぞれに賛の詩偈をつくり揮毫するやう依頼し、三幅対として同寺に寄進したものである。...

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  • 黄檗僧念仏獨湛の著作

    田中, 実 マルコス 佛教大学総合研究所紀要 20 1-18, 2013-03-25

    江戸時代初期に隠元と共に来日した獨湛は、のちに黄檗山萬福寺第四世となる。作福念仏図を用いて念仏教化をしたところから念仏獨湛ともよばれる彼は、中国禅浄双修の流れを汲みながらも、日本浄土宗の高僧たちとも交流をもち、多くの著作と絵画を残している。その著作は語録と伝記に大別することができる。それらを蒐集し全集とした上で本稿では各著作に解題を付し、また若干の考察を加え、獨湛研究の基礎作業とした。

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  • 天真院客殿と梁間規制に関する試論

    丸山 俊明, 中尾 七重 日本建築学会計画系論文集 77 (677), 1749-1755, 2012

    This paper takes up regulation between beams for the Tenshinin reception hall which is a semiautonomous subtemple of Obaku sect the Manpukuji for an example. This reception hall is what moved the …

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  • 17世紀の遺跡から出土する煎茶道具

    稲垣, 正宏 周縁の文化交渉学シリーズ1 『東アジアの茶飲文化と茶業』 201-208, 2011-03-31

    ...京都には福建省から渡来した(黄檗宗の開祖)により煎茶が伝えられた可能性があり、 隠元の信者や交友関係を通じて煎茶が広まったことが分かる。  しかし、煎茶道具は貴族の御所に隣接する公家町屋敷跡からしか出土しておらず、 長崎ほどの普及状況でないことが分かる。  京都に煎茶が普及するのは高遊外(賣茶翁)が煎茶の啓蒙活動を始める18世紀になってからのことである。...

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  • 黄檗獨湛の『勧修作福念仏図説』について

    田中, 実マルコス 佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 39 33-48, 2011-03-01

    ...黄檗宗萬福寺開山隠元禅師(以下諸師敬称略)とともに来日した獨湛は、後に萬福寺の第四世となる。獨湛は日本で『勧修作福念佛図説』を上梓し、念仏教化の資糧とした。それは昭和初期まで十刷も刊行されるほど用いられた。...

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  • 日本文人画と中国憧憬

    河野, 元昭 尚美学園大学芸術情報研究 12 9-21, 2007-11-30

    日本文人画誕生の秘密を解くためには、岡倉天心が『東洋の理想--特に日本美術について--』において指摘したような日本文化の本質的な性格を知らなければならない。その表層だけを眺めてはならない。これは日本文化について考察する際、つねに忘れてはならないことだが、日本文人画の場合には、とくに心に留めておく必要がある。それは中国絵画との関係がきわめて密接だからである。その基本的様式が中国絵画によって規定され…

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  • 仙台大年寺山地域の現況調査について

    松山 正將, 花渕 健一, 菊地 清文, 佐伯 吉勝, 高橋 則雄 土木史研究 17 351-355, 1997

    ...この時代の大年寺は、日本の黄檗宗三大叢林の一つと称される程の大伽藍であったと言われる。それ以前ほの地域は「茂ケ崎」と呼ばれていたようで、北朝方の粟野氏が城を築き本拠地としていたと言われる.現在毅大年寺由は風致地区に指定され市民の憩いの場となっているが、このように重要な歴史的空間であったことは意外と知られていない。...

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  • 5 竜峯山興禅寺について(前編) : 黄檗宗建築の研究 その4(歴史・意匠)

    堀内 仁之 研究報告集. 計画系 (48) 269-272, 1977-07-10

    鳥取市栗谷にある竜峯山興禅寺は黄檗三叢林(ほかの2ヶ寺は仙台、両足山大年寺、萩護国山東光寺)の1寺に教えられ、因伯二州の藩主池田家の菩提寺として大いに栄えた。しかし、明治維新以後は廃佛毀釈の大波をまともに受け、現在もその法燈を伝えているが、天下にほこった伽藍建築はあとかたもなく、いつ頃の造顕か不明な佛像が多少残っているにすぎない。幸い鳥取県立博物館等に往時の様子を伝える古図が残されているので紹介…

    日本建築学会

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